「ものは順繰り」「ものは順繰り」

下仁田納豆には、語り継がれるひとつの物語があります。これは、おとぎ話のような本当の話。下仁田納豆が今こうして納豆を造り続け、全国へとお届けできているのは、たくさんの人々との出会いに支えられてこそのものなのです。

手造りは高い。
取り扱ってもらえないという
現実

今では創業から50有余年の歴史を持つ下仁田納豆。しかし、全てが順調なわけではなかった。

時代はバブル崩壊、家族は揃って朝食を取らなくなり、引き売り納豆の需要も減った頃の出来事。下仁田納豆の前身である伊藤納豆は、閉店を検討するまでになっていた。
1992年元日、それまで経営していた納豆店を閉めるという家族会議の中、長男の隆道(現社長)が「自分にやらせてくれ」と継ぐ決意。それまで働いていた会社勤めにもやもやしていたこともあり、会社を辞め、父親である先代の跡を継ぐことに。社名も「伊藤納豆店」から「下仁田納豆」に変更、意気揚々と営業活動を始めた。

まずは群馬県内のスーパーや小売店を回り、置いてもらうために、営業をスタート。しかし、大手メーカーの格安商品に比べ価格が高いと、なかなか置いてもらえない。100件ほどまわる中で、置いてもらえたのは2件。この現実に、隆道は愕然とした。

昔ながらの手造り製法で採算をとるのは難しい。やるなら工場で安価に。他の大豆加工食品会社をまわる中、「辞めたほうがいいんじゃないか」と厳しい意見が多かった。

そんな頃、埼玉県のとあるスーパーに寄った時に見つけた、「三之助とうふ」という豆腐。他の商品が100円前後のなか、300円で売っている商品。スーパーの人に尋ねると、人気商品だという。その帰り道、パッケージに記されていた住所をたどって製造元であるもぎ豆腐店に寄り、話を伺うことに。そのもぎ豆腐店、茂木稔さんとの出会いが、全ての始まりだった。

もぎ豆腐店 
茂木稔さんとの出会い

もぎ豆腐店は、昭和元年、先代の茂木三之助が、東京・日本橋で創業。その後、埼玉県本庄市に移動し、二代目である稔さんが継いでた。

「君も俺と同じ二代目か」

茂木さんは隆道の状況に感心し、歓迎してくれた。そして、それまでの経緯に耳を傾けてくれた。
値段が他の大手メーカーより高くて置いてもらえないこと。受け継いで本当に良かったのかなどの不安。

「これからどうしたいんだ」

茂木さんの質問に、「もっと安くしなければ。買ってもらえないと意味がないから」隆道はそう答えていた。
すると茂木さんは憤慨。「帰れ。商売というのは、自分が売りたいものに、それに見合うだけの値段を、自分がつけて売るもんだ。自分の商売に誇りが持てないのなら、そんなのとっとと辞めちまえ」そう言って追い返されてしまった。

「教えてください、なぜ300円の豆腐が売れるのか」

呆然としながらも追い返され、しかし諦められない。すぐにもぎ豆腐店に戻り、どうすれば良いのか、教えて下さいと頭を下げた。

「納豆の材料は大豆だけだ。それだけ、大豆の質が大事ということだ。うちの豆腐は質の良い国産の大豆を使っているから高い。でも、うまいから売れている」
「うちで使っている北海道産の大豆を売ってやる。自分が納得する納豆を造ってみろ」

茂木さんはそう言ってくれ、大豆を原価で卸してくれることになった。 しかし、良い豆は、原価が高くなる。販売価格はもっと高くなる。隆道は売る自信がなかった。

「だったら、この豆で造った納豆、全部うちにもってこい。おれが売ってやる」

茂木さんはそう言って、大豆を仕入れた値段で売ってくれることに。

そこから、美味しい納豆造りへの道がスタート。自宅の工場へ戻り、その大豆を使い納豆造りを行うと、今までにないおいしさの納豆ができた。材料が違うとこんなにも味が違うものなのか。試作の末に完成した納豆を茂木さんに持っていったところ、隆道の言い値で買い取ってくれ、そのままの価格でもぎ豆腐店の直売所で販売してくれることになった。

材料も、商品も、利益を乗せずに仕入れ値のまま。隆道は、茂木さんの好意をありがたく受け、納豆造りを進めることにした。

「明日から毎日持ってこい、うちが全部買い取るから」

それから毎日、下仁田納豆はもぎ豆腐店に買い取ってもらえるようになった。結果、月商は70万円から270万円に。一家は安定。
しかし隆道の両親は「茂木さんという方は、どうしてそんなに親切にしてくれるのだろう」と不安がり、しかし隆道は特に気にすることもなく、納豆を造っては届ける毎日を過ごしていた。

茂木にもあった苦悩

なぜ茂木さんは、ここまで隆道によくしてくれるのか。それは、茂木さんの過去にあったのだ。

茂木もまた、以前は一般的な値段のごく普通の豆腐を売っていた。

「いつかは日本一うまい豆腐を造ってみたい」

茂木は、漠然とした夢を持っていた。
しかし、現実は行動に移すこともできず、気づけば17年の歳月を普通の豆腐造りに費やしていた。そんなある日、もぎ豆腐店を大きく揺るがす出来事が。

「取引をやめたい」

主要取引先である会社からの突然の電話だった。
困り果てた茂木は、付き合いのあった農業を営む人物に相談した。

「ひどい話ですよ」
「いいチャンスじゃないか」
「えっ」
「お前は前から、自分が本当にうまい豆腐を造りたいと言っていたじゃないか。この機会に造ってみろよ。困ったことがあればいつでも相談に乗ってやる」

こうして新しい豆腐造りを始めた茂木。しかし、今の材料で美味しい豆腐を造るには限界があった。安い材料では限界がある。しかし、材料を良くすればその分値段も上がってしまい、現実的じゃない。どうすればいいんだ。 そこで、今度は知り合いの販売コンサルタントに相談することに。

「高くなっても、それでいいじゃないか。これだと思う材料で造って、自分で値段をつけて売ってみろ。困ったらいつでも相談に乗ってやる。でも、人様にうまいと言ってもらえるものを造るのは、簡単じゃないぞ」

こうして茂木は、納得のいく大豆で、納得のいく豆腐を造ることに専念。父の造っていたやわらかな木綿豆腐を超える、なめらかでうまい豆腐を目指した。試行錯誤を繰り返すたび、相談に乗ってくれた人々に試食してもらい、アドバイスをもらい、さらに改良を重ねた。

「こんなになめらかでうまい豆腐は初めてだよ」

相談に乗ってくれた農家の人からの嬉しい一言だった。

「それで、この豆腐をどこで売ろうと思っているんだ?」

茂木は考えた。利益を乗せたらとんでもなく高くなってしまう。

よし、いい場所を紹介してやる。農家の人がそう言って連れて行ってくれたのが百貨店だった。実は農業を営むこの人物、自分の作物も卸してもらっていることから、口利きをしてくれたのだ。

「置いてやってください」

こうして、三之助とうふは、百貨店で販売してもらうことに。
そして、少しずつ評判となっていった。2年が経ち、もぎ豆腐店は多くのファンを獲得し、全国的にも有名になっていった。さらに従業員も増やし、工場も新設。直売店も造り、大きな企業に成長して行った。

豆腐店が軌道に乗って2年が経った1993年、茂木の元に隆道がやってきたのだった。

突然の取り扱い終了と、
予想外の事実

茂木は、最初に下仁田納豆を買い取って以来、利益を上乗せすることなく、一貫して同じ値段で販売し続けていた。
しかし、1年が経ったある日、うちに納品するのは今月で終わりだ。そう隆道に言い、これからは自分で豆を仕入れて自分で売ってみろ、そう言われ、隆道は愕然とした。
突然の取引中止。途方に暮れるしかなかった。

隆道はまず、茂木さんから許可を得て、それまでもぎ豆腐店から買っていた大豆を、直接仕入れることになった。
しかし問題は、どこにどうやって売ったらいいかわからないこと。

「東京の百貨店はどうだろう。百貨店なら、美味しいものを求めてくる人もいるんじゃないか」
「いや、そうは言っても納豆だよ。百貨店に納豆を買いに来ないだろう」

県内のスーパーもだめ、関東のスーパーもだめ、もう百貨店くらいしかない。
隆道は、造った納豆を持参し、東京の有名百貨店を訪れた。

初めての面談では、試食を断られた。試食さえもしてもらえない。「やっぱりだめか」という思いが浮かんだ。

「明日から50個納品できますか?」
「え?あ、はい、大丈夫です」

どういうことだろう。味も見ていないのに。取り扱ってもらえるなんて、どういうことだ。
さらに他の百貨店を訪れてみると、「ぜひ明日から納品して下さい」との返答が。

「味を見なくていいのですが?」
「この納豆は何度も食べていますから」
「え?」

実は、茂木さんが、売り込んでくれていたのだ。茂木さんは百貨店に行く際、この納豆をいつも置いて行ってくれた。

「美味しかったので、うちで扱いたい」百貨店の担当者がそう言うと、
「まだ待ってくれ」と。

「この納豆は、下仁田納豆という会社が造っています。そのうち、そこの若いのが必ず売りに来ます。その時、そいつと直接取引きしてやってください」

そう言って、茂木さんは隆道のために、下仁田納豆のために、頭を下げていてくれたのだ。

頭を簡単には下げることのない茂木さんが頭を下げてくれていた。

下仁田納豆から買い取っていた納豆は、すべてもぎ豆腐店の店頭で売られていたわけではなかった。その多くを、茂木がサンプルとして百貨店などの店舗に送ってくれていたのだ。

ものは順繰り

「茂木さんのおかげで置いてもらえることになりました」

礼を言いに行くと、「そんなこと言いに来たのか」と叱られた。

茂木さん自身も、三之助とうふを百貨店に置いてもらえることになったあと、世話になった方々にお礼を言いに行ったのだが、同じように言われていたのだ。

「礼を言う必要はない、いつか困った若者が来たら、そいつに同じことをしてやってくれ」

「ものは順繰りっていうだろ」

茂木さんも、同じことを順繰りに、隆道にしてくれたのだ。

こうして、多くの百貨店などに置いてもらえるようになった下仁田納豆。評判を呼ぶようになった。そして今では全国190社と取引するまでに成長。設立から7年後の1999年、年商2億円を突破。

数年前に新しい工場を作ったが、いまでもほとんどの工程を手造りのまま行っている。

しかし、2013年、茂木さんは他界。隆道にとって、下仁田納豆にとって、茂木さんとの出会いは何にも代えがたい奇跡のような出会いだった。

隆道が茂木さんから教わったこと。
それは、仕事は、賃金をもらうためにやるんじゃない。自信と誇り、情熱を持ってやるものだということ。
本当に心から美味しいと思ってもらえる納豆を造ってみろと、バトンをもらったと同時に、茂木さんからしてもらったことを次の世代につなげていくことが、茂木さんへの恩返し、恩送りになる。

ものは順繰り。恩返しをするのではなく、次へと恩送りをする。

それが、下仁田納豆の物語。自信と誇り、情熱を持って納豆を作り続ける、私たちの物語です。